西城秀樹

ジャンル:歌謡曲
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西城秀樹のバイオグラフィー

西城 秀樹(さいじょう ひでき、本名:木本 龍雄(きもと たつお)、1955年4月13日 - )は広島県広島市出身の歌手・俳優である。

出生名 木本 龍雄
出生 1955年4月13日(55歳)
血液型 AB型
学歴 明治大学付属中野高等学校 卒業
出身地 日本・広島県
ジャンル J-POP
職業 歌手
活動期間 1972年~
レーベル ビクター音楽産業
(1972年~1975年)
RVC
(1975年~1987年)
BMGビクター
(1987年~1999年)
キングレコード
(1999年)
ポリドール
(1999年~2001年)
ユニバーサルミュージック
(2002年~)
事務所 株式会社アースコーポレーション

プロフィール
広島駅近くの東蟹屋町(現東区東蟹屋町)に生まれる。血液型はAB型。父親の影響で幼少期から洋楽に馴染み、ジャズスクールに通ってドラムを勉強した。5年生の時に兄とエレキバンドを結成。山陽高等学校時代、ジャズ喫茶でバンド出演時にスカウトされる。父親が頑固で厳しい人であったため芸能界入りを猛反対。その反対を押し切り、家出同然で広島から上京。芸能事務所「芸映」に所属。明大中野高等学校定時制へ転校し、マネージャー宅に居候しながら、歌、芝居、踊りのレッスンを続けデビューのチャンスを待った。
1972年3月25日、ビクター音楽産業よりシングル「恋する季節」で「ワイルドな17歳」のキャッチフレーズと共に歌手デビュー。片仮名の「ヒデキ」の愛称で人気となる。「チャンスは一度」以降、マイクを持って「直立不動」の歌い方が主流であった歌謡界にアクション旋風を巻き起こす。
1973年、「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入りとなり、一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれる。「ちぎれた愛」、「愛の十字架」が連続してオリコンの週間チャートの第1位に輝く。絶唱型と言われる力強い歌唱法により、第15回日本レコード大賞で初の歌唱賞を受賞。1974年、「薔薇の鎖」のマイクスタンド・アクションが人気を呼ぶ。続く「激しい恋」の“♪やめろと言われても”の歌詞が流行語にもなり、オリコンの年間チャート第8位に輝く。「傷だらけのローラ」により、第16回日本レコード大賞でポップス歌手としては史上初となる歌唱賞を2年連続受賞。第25回NHK紅白歌合戦にも初出場。人気・実力・その歌唱力が広く認知され、その後も着実にヒットを飛ばす。ホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演。松竹映画『愛と誠』で映画初主演と、俳優業も活発化。
1976年の「君よ抱かれて熱くなれ」から1977年の「ボタンを外せ」までは、作詞:阿久悠、作曲:三木たかしのコンビによるヒット作品が続く。1976年の「ジャガー」、1978年の「炎」により東京音楽祭の世界大会に出場。1979年、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」の“Y.M.C.A.”の4文字を全身で表現するパフォーマンスが一大ブームとなった。
ロック系のポピュラー音楽を中心にしたコンサート活動も精力的に行い、1974年から1983年までの10年連続で、大阪球場でのスタジアム・コンサートを(1978年からは後楽園球場でも)開催。「親衛隊」と称される熱狂的なファンで常時超満員。その画期的で派手な演出が評判となった。1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演。その後11年連続で開催。秋(静)の日本武道館と夏(動)のスタジアム・コンサートは恒例となる。
1981年、「リトルガール」でシングル30曲ベストテン入り(オリコン史上初)。続く「セクシーガール」で、シングルレコード総売上枚数が1000万枚を突破する。香港で初のコンサートも開催。以来アジア各国でコンサートを行い、ジャッキー・チェンと共に“東洋の2大スーパースター”と言われて人気を博す。
1983年、スタッフと共に芸映を円満退社し独立、有限会社(現・株式会社)「アースコーポレーション」を設立する。第1弾シングルは「ギャランドゥ」。以降、グラハム・ボネットの「Night Games」、ワム!の「Careless Whisper」、バリー・マニロウの「In Search of Love」、「It's All Behind Us Now」をカヴァーする等、本格的なロック系、バラード系の曲が発売シングルの主流になっている。1990年代になると若きロック・ミュージシャン達が挙って西城のコンサートを観賞に訪れ、“ロック・アーティストの憧れのスターNo.1”と言われる様になる。
NHK紅白歌合戦は1974年から1984年の「抱きしめてジルバ」まで11年連続出場。日本レコード大賞では1976年の「若き獅子たち」により3度目の歌唱賞を受賞。金賞は1978年の「ブルースカイブルー」から1983年の「ギャランドゥ」まで6年連続受賞する。『ザ・ベストテン』には番組の放送が開始した1978年の「ブーツをぬいで朝食を」から1986年の「腕の中へ」まで22曲(154週)登場した。
1991年、アニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「走れ正直者」、1999年にロボットアニメシリーズ『∀ガンダム』の主題歌「ターンAターン」を歌う。
2000年、「最後の愛」を最後にビクター~RCA~BMG系から、ポリドールレーベルへ移籍し「Bailamos」をリリースする。以降ユニバーサルJ、NAYUTAWAVEとユニバーサル傘下の各レーベルから楽曲をリリース。
2001年6月30日、私生活では会社員であった現夫人と結婚。2002年6月3日、長女誕生。2003年9月1日、長男誕生。
2003年、85枚目のシングル「粗大ゴミじゃねぇ」発表直後、公演先の韓国で脳梗塞を発症するも、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに「めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -」が両A面で発売された。

功績
アクション・ブーム
1972年、3枚目のシングル「チャンスは一度」で初めて振付けが付く。1973年、初のベストテン入りを果たした「情熱の嵐」ではさらに振付けがエスカレート(西城のは激しかったため「振付け」ではなく「アクション」と呼ばれた)。1974年、「薔薇の鎖」でスタンドマイクを使ったアクションをやって評判を呼ぶ。ロッド・スチュワートがコンサートでアルミのマイクスタンドを使っている事に気づき、速攻で10本特注。この軽量スタンドマイクにより西城秀樹型スタンドマイク・アクションが誕生し、以後コンサートでの定番となった。その後すぐに軽量スタンドはブームとなり、翌年にはメーカーが生産するようになった。男子小学生が掃除の時間、ホウキを使ってこのアクションをよくマネしていたのは有名。次作品の「激しい恋」のアクションも話題となり、アクションブームを巻き起こした。以後、新曲が出るたびに歌唱だけでなくそのアクションに、又奇抜な衣装にも注目が集まった。
この頃、関西地方のローカル番組として人気のあった『プリン・キャッシーのテレビ!テレビ!!』(1973年~)のコーナー「パクパクコンテスト」(素人が口パクでレコードに合わせて振りマネをする)で、男性出演者の半分は西城の振りマネをしていたぐらいである。初代グランドチャンピオン松原秀樹、2代目の草川祐馬、3代目の川崎麻世はいずれも西城の振りマネをして人気を博し芸能界デビューを果した。

絶唱型と言われる歌唱法
1973年、初めてオリコンの1位に輝いた「ちぎれた愛」は、自身のハスキーな歌声を前面に押し出して歌い上げた初めての楽曲である。後にその歌唱法は「絶唱型」と呼ばれた。さらに全身全霊を込めた喉が張り裂ける様な歌唱法は、次作品の「愛の十字架」、1974年の「傷だらけのローラ」、1975年の「至上の愛」へと受け継がれて徐々にエスカレートしていき、その迫力で観客を圧倒した。「絶唱型」の楽曲には決まって台詞が入り、感情を込めて何かを絶叫するというものが多いため、「絶叫型」とも呼ばれた。台詞入りの楽曲には「ちぎれた愛」、「傷だらけのローラ」の他に1975年の「白い教会」、1976年の「ジャガー」などがある。1980年の「サンタマリアの祈り」が完成形であったと、2000年に開催した80曲記念コンサート『Bailamos 2000』で語っている。

伝説のスタジアム・コンサート
1974年夏、日本人で初めて球場でのワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く(グループでの日本人初は1968年のザ・タイガース)。 西城は元々アメリカのウッドストック・フェスティバルが好きで、自分も野外でライブがやってみたいと常々希望していたことでこのコンサートが実現した。西城の球場コンサートは、ただ歌と演奏をするだけにとどまらず、球場の大きな空間を利用しての派手な仕掛け[3]、演出が売りであり、毎年赤字覚悟でエスカレートしていった。時代的にどれも人が操作したり手動で動かす手作りライブであった。
大阪球場は1974年より1983年まで10年連続(1978年から東京の後楽園球場でも開催)と長きにわたり継続。派手な仕掛けに加え、「雨男」と言われるぐらい雨中でのライブも多く、何より主役である西城の派手なパフォーマンスと相まって、記録+記憶に残ったコンサートとして「伝説」と表現されている。昨今主流のドーム・コンサートなど様々なライブイベントにも、影響を与えている部分は必ずある。この1974年の球場ライブで「なにか光るものを用意してきて!」と観客に呼びかけたのがきっかけで、日本のコンサートでペンライトが広く普及したといわれる。

観客参加型の先がけ
1979年に発売された、一般的には西城秀樹の代表曲といわれている「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、ヴィレッジ・ピープルの曲をカバーしたものである。原曲はGAYをイメージする曲であったが、これを若者の応援歌(青春讃歌)に歌詞を変えて発売した。当時はまだGAYへの偏見が大きかった時代で、発売前のテレビ関係者の評判はよくなかったが、蓋を開けるとたちまち火が付き、周りの態度も一変した。前年に映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の日本公開でディスコ・ブームが到来していた矢先、素早くこのディスコ音楽曲に目を付け、“Y.M.C.A.”の4文字を全身で表現するという、西城独自のエンターテイメントに徹した観客参加型のパフォーマンスが一大ブームとなった。自身最大のレコード・セールスを記録しただけでなく、『ザ・ベストテン』で番組史上唯一の9999満点を2週にわたり獲得する。続く同じく観客参加型の応援歌・第2弾として発売された「ホップ・ステップ・ジャンプ」、バラード曲の「勇気があれば」もヒットし、第10回日本歌謡大賞、第8回FNS歌謡祭などその年の各音楽賞でグランプリを受賞。ただし日本レコード大賞は「外国人の作曲作品は審査対象外」となるルールにより逃した。さらに1980年には観客参加型の応援歌・第3弾として「俺たちの時代」を発売している。「みんなで何かをする、ファン参加型ライブの素晴らしさを実感した。」と、多くの場所(1979年の『ミュージックフェア』等)で語っていたように、西城自身の強い意思で行われ、それまでの歌謡界の固定観念を覆すような先がけとなった。

日本人歌手アジア進出のパイオニア
1981年、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演。番組視聴率は90%を超えた。9月12日~9月14日、香港で初めてのコンサートをクイーンエリザベス・ホールで開催。新聞の見出しは、それまでの「赤旗星(スーパースター)」から「天皇巨星(超スーパースター)」と表記され、香港でプラチナディスクを獲得。アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる。
1982年9月20日~9月25日、香港にて2回目のコンサートを開催。1985年9月7日~9月11日、香港のほかシンガポールでもコンサートを開催。1986年、シチズンのCMで、海外(アジア各国)CMに初出演。CMソングは「City Dreams From Tokyo」。10月14日~10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '86 -』を開催。
1987年3月5日~3月8日、中国本土で初のコンサート(北京・首都体育館、廣州・中山記念堂)。廣州のコンサートは児童福祉会館のエレベーター建設のためのチャリティー・コンサートで、そのエレベーターは「西城号」と命名された。)。3月10日~5月5日、香港で初の主演映画『天使行動 (Angel)』撮影(1989年、日本でも上映)。撮影の3ヶ月間、ジャッキー・チェン、故レスリー・チャン、ジョイ・ウォンなどと友好を深める。
1988年9月16日、ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル・韓国)、陳百強(ダニー・チャン・香港)、胡寅寅(フーインイン・中国)と共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う。日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語の歌が電波にのった瞬間。この模様は衛星中継で世界137ケ国で放映された。1989年2月、香港、バンコク、3月にブラジル・サンパウロ(イヴィラポエラ体育館)でコンサートを開催。
1990年、広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』を初プロデュースし、出演する。チョー・ヨンピルなど各国からトップ・アーティストを招聘した。1993年にも同種のアジア音楽祭をプロデュースし、出演する。1991年、バングラディシュ救援コンサート『俺らだけのヒットパレード』(以降3年連続)に出演。
1996年、中国大連で行なわれた『国際ファッションショー前夜祭』に日本からのゲストとして出演。大連体育場約4万人の前で歌唱。中国全土及びアジア各国にテレビ放映された。
1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国の万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを行う。アジア・ツアーの一環として広州・珠海でもコンサートを開催。中国唱片廣州公司(CHINA RECORD)より「moment」北京語ヴァージョンを含むベストアルバム『瞬間』発売。
2007年3月22日、香港のレコード協会にあたるIFPI香港の設立40周年記念のイベント『IFPI Top Sales Music Award』に、約35年間の東アジアの音楽業界の成長に大きな影響を与えた海外アーティストとして招かれ歌唱。CHAGE and ASKAとともに表彰された。同年9月24日には、日中国交正常化35周年と中韓国交開始30年の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された『第9回アジア国際芸術祭』に出演し、「傷だらけのローラ」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を披露。この模様は10月13日、中国全土に放映された。

人物
スポーツマン
スポーツマンで、小学校の時は柔道を習い、学生時代の部活動は水泳部でマリンスポーツが得意。全国ネットでテレビ中継された芸能人水泳大会や運動会では競泳、走高跳などで大活躍(走高跳では芸能人記録を樹立した)。フジテレビで放送の芸能人水泳大会ではどういうわけか、花形の自由形ではなく平泳ぎに出場。自由形での泳ぎは最後のリレーでしか見ることができなかった。その他には『8時だョ!全員集合』の体操コーナーでも活躍。趣味はスキューバダイビング(1983年頃より・指導員資格所有)やゴルフ、サーフィンもやっていた。

夏男
「情熱の嵐」以降、夏をイメージさせるヒット曲が多いこと。その激しく歌い踊る姿や真夏のスタジアムコンサートの熱い印象。芸能人水泳大会での活躍、長髪で日焼けした精悍なイメージから「夏男」との異名をとった。また夏に野外で派手に新曲発表会を行う事が多かった。

バーモントカレーのCM出演
1973年から12年間、ハウス食品の「バーモントカレー」のCMに出演し“ヒデキ、感激!!”、“ヒデキ、ご機嫌!!”、“ヒデキ、満足!!”など数々のキャッチコピーがお茶の間の人気を呼び、大人から子供まで幅広い世代の支持を得る。“ヒデキ、感激!!”というフレーズは、いまだにスポーツ紙で西城の記事が掲載される際に時折見出しとして登場する。

エピソード
歌手ではなくドラマーになることが夢だった幼少期の心情を大きく変えたのは、テレビで流れた尾崎紀世彦の「また逢う日まで」で、これが歌手となる転機となった。この曲を唄ってデビュー前のオーディションに合格する。
デビュー当時、才能を認められ、先輩の歌手として兄のように慕っていたのは布施明であったという。布施は初期の西城のコンサートのプロデュースに加わっていたこともあった。
若い頃は喧嘩っぱやく、和田アキ子と取っ組み合い(寸前)の喧嘩をしたことがあると和田の著書に記述されている。最近は笑い話として、この話をお互いラジオや雑誌のインタビューで話している。

夜のヒットスタジオの顔
フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』への初出演は1972年12月4日(第214回)。3枚目のシングル「チャンスは一度」での出演であった。1974年以降、ヒットスタジオとの関係が薄い芸映所属ながら人気・実力を評価されて準レギュラー格としてほぼ1月に1~2回のハイペースで出演を重ね、五木ひろし・森進一に次いで歴代3位の188回にわたり同番組に登場。「ミスター夜ヒット」の代表格の一人として様々なエピソード、見せ場を提供した。
1984年11月19日放送では、ワム!の『Careless Whisper』のカバーで、『抱きしめてジルバ』と競作となった郷ひろみの『ケアレス・ウィスパー』と対決した。西城より1ヶ月遅れでリリースした郷の発売時(11月10日発売)の宣伝企画に乗せられる形で、フジテレビ番組スタッフに「同一曲のカバーでの対決」を持ちかけられた際、西城は「全く同じセット、同じ演出で唄う」という条件で了承し、この前代未聞ともいえる企画が実現した。ただし、歌う順番は西城が先行、歌唱時間は郷が長めに設定された。

後進タレントの発掘
芸映在籍中は看板スターとして活動すると共に、デビュー間もない1972年夏、事務所関係者と共に浅田美代子を街頭でスカウト無名の新人アイドルだった相本久美子の芸映への移籍を推薦したほか、自らの名前を冠した新人コンテスト「ヒデキの妹・大募集」で河合奈保子と石川秀美の1980年代を象徴する女性アイドルの発掘に成功するなど、プロダクション・マネジメントの面でも大きな貢献を果たした。

脳梗塞からの復帰
2003年、ディナーショーのため訪れていた韓国で脳梗塞を発症。朝に症状がありながら、その夜のディナーショーをやり通して、さらに空路帰国して入院。懸命のリハビリにより1ヶ月で復帰会見に臨んだが、実は一部声帯の神経をやられていて、歌うどころか思うように話すことすらできない状態であり、引退を発表するつもりだったという。「すぐに結論を出さずゆっくり直していけば」という夫人の言葉で、芸能活動をしながら回復に励む道を選ぶ。その年『Forever '70s ~青春~ 伝説のステージ』に出演するも、「ボロボロだった。」と振り返っている。
2004年、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)発売。自分の闘病体験が同じ病気を患った人たちへの役に立てればと、医療関係のシンポジュームなどでの講演も積極的に行う。
無くした声帯の神経の周辺の神経を刺激し鍛えるボイストレーニング法に取り組み、2006年、脳梗塞発症以来3年ぶりのシングル「めぐり逢い/Same old story ~男の生き様~」発売。その後も徐々に回復傾向に向かい、年々コンサート本数も増えている。

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