Death Cab For Cutie

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Death Cab For Cutieのバイオグラフィー

ワシントン州の小さなカレッジ・タウン、ベリングハムで結成されたデス・キャブ・フォー・キューティーはエンジニアを学ぶ学生で、インディ・ロッカーのベン・ギバードのソロ・プロジェクトとして始まった。失恋を9曲の曲に仕上げた彼は、ためらうことなく他の人に聴かせ、新米4トラック・プロデューサー(かつティーンネイジ・ファンクラブ・ファン仲間でもある)クリス・ウォラとキャンパスいちうけがいい(そしてコミック・ブック・マニアの)ベーシストのニック・ハーマーを迎え入れた。その結果生まれたのが1997年のデモ・テープ『ユー・キャン・プレイ・ズィーズ・ソングス・ウィズ・コード』である(これは最終的に、様々なDCFCのレア・トラックを追加してCDとなって2002年にリリースされている)。
ちなみにバンド名はビートルズの映画『マジカル・ミステリー・ツアー』に登場する英国ジャズ/ロック/コメディ集団のザ・ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンドがパフォーマンスした曲名に由来。
シアトル界隈で盛り上がりを見せるようになったDCFCはすぐにちゃんとしたバンドとして結束し、1998年、オフィシャルのデビュー・アルバム『サムシング・アバウト・エアプレインズ』をローカルで急成長を遂げているインディ・レーベルBarsukからリリースした。その後はツアー、新ドラマーの加入が続いて、またツアーの日々だった。それからまたアルバムをリリース。2000年の『ウィー・ハヴ・ザ・ファクツ・アンド・ウィーア・ヴォーティング・イエス』と2001年の『ザ・フォト・アルバム』はどちらも、内容、セールスともにより大きな成功を収めた。
バンドとして実のある作品を創り上げ、ベン、クリス、ニックは状況を改めて見直し、これはもはや学生の道楽ではなく彼らの人生なのだということに気づいた。そこで彼らは分別のある人間なら誰もがやる行動に出た。休暇をとったのだ。クリスは一番好きだったプロデュース業に戻り、ザ・ディセンバリスツ、ザ・サーマルズ、ナダ・サーフ、そしてトラヴィス・モリソンらの好評を博した作品の数々を手がけた。ベンはロサンゼルスのシルヴァーレイクで時間をすごし、友人でプロデューサーのジミー・タンボレロとエレクトロポップ・ソングをレコーディングした。このサイド・プロジェクトはザ・ポスタル・サーヴィスという名前でアルバム『ギヴ・アップ』を発表し、今日までに60万枚以上のセールスを達成している。
2003年別々に過ごした時期を経てリフレッシュし再生し、新しく加入した名ドラマーのジェイソン・マックガーにも刺激され、DCFCがレコーディングした『トランスアトランティシズム』はリリース後絶賛を巻き起こした。画期的な事件はドミノ倒しのように次々に起こった。既発作品のセールスは倍にはねあがり、日本とオーストラリアのツアーも成功を収め、雑誌にもとりあげられ、そしてTVにも(2005年春の『The OC』での忘れがたいパフォーマンスも含めて)出演し、パール・ジャムの「the Vote for Challenge Tour」にも招かれて参加した。また、2004年に行われたトランスアトランティシズム・ツアーは、のちにドキュメントDVD『DRIVE WELL, SLEEP CAREFULLY: オン・ザ・ロード with デス・キャブ・フォー・キューティー』として、2005年にジャスティン・ミッチェル監督の手でリリースされた。
2004年の秋、DCFCはアトランティック・レコードとワールドワイドでの契約を結び、アトランティックからのデビュー・アルバムとなる『プランズ』をリリース。2005年のグラミー賞において“ベスト・オルタナティブ・アルバム”にノミネートされたこの作品はビルボードで47週に渡りチャートインし、2006年にゴールドディスクに認定された。 2006年には『プランズ』の各曲よりインスパイアされた11の短編フィルム(それぞれを異なる監督が監修)をまとめたDVD『Direction』をリリース。またこの年、彼等とって初となるニール・ヤングの“Bridge School Benefit Concert”に出演を果たした。その後12月9日にプランズ・ツアーを終えると新作のレコーディングに入った。
2008年、いよいよ待望の新作『ナロー・ステアーズ』が発表となる。