Suede

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Suedeのバイオグラフィー

Suede(アメリカではThe London Suede)はBritpopシーンのスタートに寄与した1990年代から2000年代初頭に活躍したイギリスのロックバンドである。いくらかの浮き沈みはあったものの、彼らは一貫してチャート上位に顔を出し続けながら、評論家の評価をも保持しつ続けていた。北米では目立った成功は収められなかったが、70年代のRoxy Music、80年代のThe Smithsが収めていたような成功を、90年代のイギリスで果たしていたと考えられている。

 Suedeは1989年、ベーシストのMatt Osman、シンガーのBrett Anderson、BrettのガールフレンドでリズムギターのJustine Frischmanの3人で結成された。その後すぐ、Melody Makerに出したメンバー募集の広告によりBernard Butlerがギタリストとして加わった。パーカッションにドラムマシーンを使いながら、SuedeはBrightonのレーベル、RML Recordsと契約する。レコード契約をする前、短い間だが、コメディアンのRicky Gervais(The Officeというコメディーで有名になった)が彼らのマネージメントをしていたこともあった。

 元The SmithsのMike Joyceという有名なドラマーの助力もあり、Suedeは最初のレコード『Be My God』『Art』を制作したが、2000枚という少ないプレスであり、現存するものがあまりないことから、今ではレアなコレクションとなっている。やがてドラムマシーンの代わりに、Simon Gilbertが加わり、Nude Recordsと契約する。Brett Andersonとの同棲は続けていたが、この時期にFrischmannがリハーサルに参加できなかったことを理由にバンドを抜け、BlurのDamon Albarnと付き合うようになった。

 バンドはシングル一枚も発表していない状態でMelody Maker誌の表紙を飾り、「イギリス最高の新人バンド」と謳われたことでメディアから注目される中、Suedeの初のシングル『The Drowners』がリリースされた。当時流行していたグランジやマッドチェスターとは異なる、このデビューシングルに人々は大きく熱狂した。Andersonの煌びやかなルックスとユニークなボーカル、Butlerのメロディの強いギタープレイとが合わさり、Suedeはさらに希有の存在となった。

 後にMorisseyがライブでカバーをして有名になった『My Insatiable One』や『To The Birds』という強烈なB面曲をフィーチャーした『The Drowners』は、大きくメディアに取り上げられたにもかかわらず、全英49位とそれなりの売上げにとどまった。しかし彼らが成功を果たすのは、続く『Metal Mickey』(Daisey ChainsawやQueenAdreenaといったバンドのシンガーであるKatie J and Garsideのことを書いた曲)、『Animal Nitrate』をリリースしてからであり、これらのシングルはリリース後数ヶ月の間UKのトップ20にとどまり続けた。

 彼らの最初のアルバム『Suede』は、Frankie Goes To Hollywoodの『Welcome To The Preasuredome』以来最速の売上げを記録し、1993年のBRIT Awardsでのパフォーマンスを期に、さらに売上げは加速していった。Ed Bullerによる幾重にも重ねられたプロダクションは、David BowieらグラムロッカーやThe Smithsからの影響を感じさせ、それらが絶妙なフィルターとブレンドで織り交ぜら独自のサウンドを作り出していた。しかし、イギリス中でSuedeを取り囲んだヒステリアは短い期間で収束し、アメリカまでそれが及ぶことはなかった。

 Cranberriesとのツアーが組まれ、それをMTVがサポートしたにもかかわらず、アメリカでの成功は限られたものであった。加えて、とある同名の女性ラウンジ歌手の顧問弁護士はバンドに対して、アメリカでは「Suede」というバンド名を使わないように要求してきた(こうした問題は、The CharlatansがThe Charlatans UKという名前に変えられたように、その後アメリカに進出したイギリスのバンドが直面した問題となった)。結局北米のマーケットでは、バンドは今後The London Suedeという名前でアルバムをリリースすることになってしまう。

 アメリカでSuedeが売れなかったことについては、いくつかの要因があるといわれているが、中世的なルックスとはっきりとしたブリティッシュサウンドは、アメリカ人のオーディエンスにとっては相容れないものであったようである。デビューアルバムのリリース後、1993年後半から1994年のはじめに、次のシングルとアルバムの制作を開始した。

 94年2月、彼らはシングル『Stay Together』をリリースした。このシングルも大きな売上げを記録し、バンドの最高位となるチャート3位を獲得した。しかし、バンドの成長とは離反するように、セカンドアルバムの制作を開始した頃には、メンバー間では緊張が高まっていた。AndersonとButlerはアルバムのプロダクション(Ed Bullerが再度手がけていた)を巡って頻繁に衝突するようになった。この緊張が頂点に達したとき、Bernard Butlerは書いた曲のアイディアを吹き込んだテープを残して、セカンドアルバムのレコーディングセッション中にバンドを脱退してしまう。このアルバムのギターワークは、スタジオミュージシャンやBrett Andersonが補完することで完成されたものだった。

 『Dog Man Star』(1994年発表)が発表されると、評論家には評価されたが、その売上げは前作に比べるとかなり落ち込んでしまった。バックにストリングやホーンセクションを鳴らし、壮大なサウンドを特徴とするそのアルバムは、デビューアルバムとは大きく異なったものだった。この年は、Blurの『Parklife』とOasisの『Difinitely Maybe』がポップの王道を求めて決闘していたときであったが、Suedeは『Dog Man Star』で暗い領域を探求していたのであった、バンドはButlerという創作面での主要メンバーの代わりを探すことになった。

 やがてギタリストの空白は、アルバムプロモーションのための海外ツアーを待たずに、17歳のRichard Oaks(プレスからは最初"Little Dickie"というニックネームを付けられていた)が埋めることになる。多くの評論家やファンは、バンドのソングライティングに大きな役割を占めていたBernard Butlerのいないバンドの能力に疑いを持っていたが、サードアルバム『Coming Up』(1996年発表)の制作にあわせて、キーボーディストとコーラスを兼ねるNeil Codlingをメンバーに加え、以前より幅広い音楽性を手にしたこのアルバムによって、彼らは再びメインストリームでの成功を手に入れた。アルバムからのファーストシングルである『Trash』は非常にポップな曲で、彼らが『Stay Together』以来のUKシングルの最高位である3位に入った。

 アルバムはヨーロッパやアジア、カナダで大きな売上を記録したものの、アメリカではやはり売れなかった。しかしこの成功は、Andersonとレコード会社がButler抜きでもヒットする音楽を作れるこことを証明したものだった。『Coming Up』は、前作が暗い要素を打ち出していたのとは打って変わり、グラムなポップ/ロックを特徴としたアルバムで、Suedeはまたも大胆に音楽を変化させたのだった。レビューは賛否両論だったが、アルバムはUKチャート1位を獲得し、Suedeのアルバムの中ではトップの売上を記録した。『Dog Man Star』の時期とは異なり、ビデオやラジオでヘヴィ・ローテーションされ、彼らのキャリアの多くの部分で特徴づけられていたハイプという印象を払拭することになった。結局このアルバムは、トップ10シングルを5曲も排出した。

 次にバンドは、Bサイド曲を集めた『Sci-Fi Lullabies』をリリースし、コンピレーションとしてはチャートの反応もよく、9位にランクインした。Bサイドの曲もバンドはしっかりと作っており、時に評論家やファンにはにはA面曲と同等、もしくはそれ以上として見なされていた。

 このコンピレーションがリリースされる1997年までにブリットポップシーンははっきりと人気を失っており、バンドは『Coming Up』までの作品をプロデュースし続けていたEd Bullerと袂を分かつことを決めた。

 リードシングル『Electricity』が収録されたSuedeの4枚目のアルバム『Head Music』(1999年)は、再びバンドをチャート1位に導いたものの、評論家やファンからはあまり評価されなかった。Happy MondaysやNew Orderを手がけたこともあるSteve Osborneによりプロデュースされたこのアルバムは、ギターリフが減り、よりキーボードを多用していた。奥行きがなく、本質に欠けるレコードと多くの人が感じていた一方で、グループがこれまでと異なる方向性を採っており、新しい領域に進んだと考える人もおり、賛否を二分したアルバムだった。

 続く3枚のシングルはチャートトップ10に入ることはなく、1995年のシングル『New Generation』から続いていた記録を途絶えさせてしまった。これらのシングルのB面曲もこれまでの水準に達したものではなく、創造性に枯渇し始めたことを示すものとなっている。冗長なボキャブラリーと同じような単語を繰り返し使用することから、Andersonはファンからの非難を浴びるようになってしまう。バンドはメインストリームでの人気は少し落ちたものの、それでも大くのコアなファンを抱え続けていた。

 『Head Music』のリリース後間もなくして、Nude Recordsはレーベルを廃止してしまった。ほかの多くのレーベルメイトと同じく、SuedeはNude Recordsの親会社であったSonyと5枚目のアルバム『New Morning』(2002年)の契約をした。アルバムの企画には長い時間とトラブルが費やされ、キーボードのNeil Codlingが慢性疲労症候群を発症しバンドを脱退することになってしまった。結果、以前からの知り合いであった元StrangeloveのAlex Leeがバンドに参加することとなった。

 ライブでは、Leeはキーボード以外にもセカンドギター、コーラス、ハーモニカを演奏した。アルバムタイトルについて、Andersonは「新しいバンドと新しい概要、新しいスタート」を意味するしていると語った。彼は長い間ヘロインやコカインの中毒に苦しんでいたため、健康へ重大な影響が出たこともあった。このアルバムタイトルについて語ったとき、彼は「僕らはみんなドラッグ問題を払拭したんだ、すごく素敵なことさ」とも発言した。

 Andersonの健康が回復したとはいえ、アルバムのセールスは芳しくなく、チャート20位にも入ることはできなかった。ブリットポップのプロデューサーとして名高い、John Leckie(The Stone Rosesの有名なデビューアルバムやRadiohead、Museの作品をプロデュースした)とStephen Street(The SmithsやBlurが彼の代表的なプロデュース作品である)によりプロデュースされた『New Morning』、ファンや評論家から酷評され、メインストームのファンはバンドへの興味をなくしてしまって久しかった。このアルバムからは『Positivity』と『Obsessions』の、2枚のシングルのみがリリースされたが、どちらのシングルもチャート上位には届かず、結局それ以上シングルカットされることはなかった。

 2003年の秋、シングルのコンピレーションとそれに伴うシングル『Attitude』をリリースした後、SuedeはLondonのInstitute of Contemporary Artsで5回の公演を行った。それぞれの公演では、彼らのこれまでの5枚のアルバムをそれぞれ、収録順に演奏し、アンコールではB面曲を演奏した。この公演の後、バンドはSuedeの名前では今後作品を発表しないことを公表し、それはつまりバンドの終焉を伝えるものとなった。

 最後のライブとなった12月13日のLondon Astoriaでの公演は、2時間半という長時間のライブとなり、2部構成となっていた。1部では、「自分たちがやりたい曲」を演奏した。Brettは「またSuedeとしてアルバムを作るかもしれない」と語り、ファンを喜ばせたが、その後すぐに「でも、今はその時期ではない」と付け加えた。「See You in the Next Life」が彼らの最後の言葉だった。