t.A.T.u.

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t.A.T.u. プロフィール画像

t.A.T.u.のバイオグラフィー

t.A.T.u.(ТАТУ、タトゥ、タトゥー)は、1999年に結成されたロシアの音楽プロジェクトグループ。

ヴォーカルのエレーナ・セルゲーエヴナ・カーチナとユーリヤ・オレーゴヴナ・ヴォルコヴァの二人組がt.A.T.u.であるかのように誤解されているが、本当はプロデューサー・作曲者・作詞者・各マネージャーを含むプロジェクト全体の名称である。ヴォーカルの二人だけを指すときはтатушки(タトゥーシュキ)と呼ぶのが正しい。片方だけを呼ぶときは単数形でтатушка(タトゥーシュカ)と呼ぶ。これはロシア語における「тату」の愛称形(指小語)であるが、このような言語学的解説は理解されにくいため、neformat社では「татушка」(タトゥーシュカ)は「тату девушка」(タトゥー・ジェーヴシュカ、"tatu girl"の意)の略というより単純な説明をしている。

ТАТУというグループ名は、ロシア語の「Та любит ту」(ター・リュービト・トゥー、"This (girl) loves that (girl)"の意)の略だとされている。

* ヴォーカル:

リェーナ(エレーナ・セルゲーエヴナ・カーチナ)
Елена Сергеевна Катина (Lena Katina)
1984年10月4日モスクワ生まれ。身長158cm。[1]

ユーリャ(ユーリヤ・オレーゴヴナ・ヴォルコヴァ)
Юлия Олеговна Волкова (Julia Volkova)
1985年2月20日モスクワ生まれ。身長154cm。[2]

* メイン・スポンサー:

ボリス・レンスキー (Борис Ренский)(現役)

* プロデューサー:

イワン・ニコラエヴィッチ・シャポヴァロフ (Иван Николаевич Шаповалов)(既に解雇)
ボリス・レンスキー(メインスポンサー兼任)
エレーナ・カーチナ(ヴォーカル兼任)
ユーリヤ・ヴォルコヴァ(ヴォーカル兼任)

* 副プロデューサー:

エレーナ・ウラジーミロヴナ・キーペル (Елена Владимировна Кипер)(脱退)

* 1stアルバム英語版プロデューサー:

トレヴァー・ホーン (Trevor Horn)

* 作曲担当:

セルゲイ・ガロヤン (Сергей Галоян)(脱退・復帰)
アレクサンドル・ヴォイチンスキー (Александр Войтинский)(脱退)
イワン・シャポヴァロフ(脱退)
R. リャプツェフ (Р. Рябцев)
E. クリツィン (Е. Курицын)
M. ラサル (M. Lasar)
L. アレクサンドロフスキー (L. Alexandrovski)
A. ポクートニ (A. Pokutni)
V. アダリチェフ (V. Adarichev)

* 作詞担当:

エレーナ・キーペル
ヴァレリー・ポリエンコ (Валерий Полиенко)(脱退・復帰)
イワン・シャポヴァロフ(解雇)
R. リャプツェフ
A. ヴルィフ (А. Вулых)
A. カサエヴァ (А. Касаева)
V. ステパンツォフ (В. Степанцов)

* 英語版作詞者:

トレヴァー・ホーン
マーティン・キールセンバウム (Martin Kierszenbaum)

* コンサートマネージャー:

レオニード・ズュニク(脱退)
オリガ・マトヴェーヴァ(現役)

* 広報担当マネージャー:

ベアタ・アルジェーエヴァ(事故のため退職)
アレクサンドラ・チチャンコ (結婚退職)
エヴゲーニア・ヴォエヴォディーナ(現役)

* 専属ダンサーズ:6名(解雇)

途中、ヴォーカルにカーチャ・ネチャエヴァ(Катя Нечаева)(解雇)が参加していた頃もあった。

* スポット参加:

カーチャ・ネチャエヴァ(Катя Нечаева)
エストニアの若手シンガー。
2001年エストニアでデビュー。同年12月イワンシャポヴァロフと契約した後、バックコーラスのひとりとしてTATYに参加した。このころユーリャの発声が不安定となり、しばしばカーチャがユーリャのパートを代わりに歌っていた。2002年のユーロビジョン・ソングコンテストでは三人目のヴォーカルとして表舞台に出るのではないかとうわさされたが実現しなかった。その後もシャポヴァロフはカーチャのソロデビューを構想していたので、カーチャも 2003年の「天空」までТАТУと行動をともにしていた。ところが脱退したユーリャとレーナを引き戻すためにレンスキーらスポンサーがシャポヴァロフを解任。シャポヴァロフを信じて残留していたカーチャは居場所を失い、結局ТАТУを去ることになった。カーチャとともに契約したエストニア人ドラマーとギタリストがいたが、「天空」以前にТАТУから離れている。

* ゴードン・マシュー・サムナー(Gordon Matthew Sumner, STING)

1951年10月2日、イギリスのニューカッスル・アポン・タイン生まれ
英国ロックの大物スティングの本名。
1977年に、ポリスを結成、1978年にA&Mより「ロクサーヌ」でデビュー、1983年、活動休止。 1985年、スティングとしてのソロ活動を開始。1999年に発表した『ブラン・ニュー・デイ』は、第42回グラミー賞を2部門で受賞。
他にも熱帯雨林の保護運動家。国際的な人権保護運動家の側面を持つ。ТАТУのセカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、「Friend or Foe」という曲のベーシストとしてスポット参加。

* リチャード・カーペンター(Richard Carpenter)

1946年10月15日、アメリカ生まれ
カーペンターズにてボーカル、作曲、アレンジなどを担当していた。t.A.T.uのセカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、「GOMENASAI」という曲のストリングスアレンジを手掛けた。

* デイヴ・スチュワート(David A. Stewart)

1952年9月9日、イギリス生まれ
元ユーリズミックス。t.A.T.uのセカンドアルバム「デンジャラス・アンド・ムーヴィング」では、「Friend or Foe」という曲を手掛けた。

略史 [編集]

デビュー以前 [編集]

1999年、一攫千金をねらったアレクサンドル・ヴォイチンスキーとイワン・シャポヴァロフが子供バンド「ネポセディ(Непоседы)」を卒業したばかりのレーナ・セルゲーエヴナ・カーチナを見出したところからТАТУは始まった。レーナの父セルゲイ・カーチン(Сергей Катин)は優れた作曲家で音楽プロデューサでもあり、ヴォイチンスキーとは面識があった。また、オーディションではレーナ・カーチナと「ネポセディ」で歌っていたユーリャ・ヴァルコヴァも選ばれた。

この時のグループ名は「ТАТУ」ではなく、単に「プロジェクト」だった。

ちょうどその頃、ヴォイチンスキーはコソボ紛争におけるNATO軍の爆撃でユーゴスラビア(当時)の首都ベオグラードにいた家族を失い、悲しみに打ちひしがれていた。そこでヴォイチンスキーは不条理な戦争の悲しみや憤りを込めた「ユーゴスラビア(Югославия)」を作曲し、レーナ・カーチナに歌わせてデビューさせた。しかし「ユーゴスラビア」は全くヒットせず、これを不満に感じたイワン・シャポヴァロフが当時恋人だったエレーナ・キーペルのコンセプトを利用して少女2 人組のデュエットを提案した。またボリス・レンスキーを出資者として招きよせ、プロジェクトの財政を安定化した。作詞・作曲陣としては、セルゲイ・ガロヤン(作曲)、ヴァレリー・ポリエンコ(作詞)の二人を発掘。それまで全く無名な学生に過ぎなかったガロヤンとポリエンコは、その若い才能を開花させた。

こうして「プロジェクト」は「ТАТУ」に改称された。

エレーナ・キーペルはスウェーデン映画「ショー・ミー・ラヴ(原題 Fucking Åmål)」から得られたミドルティーンの少女の同性愛をコンセプトを得、シャポヴァロフがこれを採用した。ヴォイチンスキーはシャポヴァロフのこの路線に反発し、プロジェクトを離脱する。

2000年 [編集]

2000年9月、エレーナ・キーペル作詞、セルゲイ・ガロヤン作曲による「ヤー・サシュラー・ス・ウマー(Я сошла с ума / 私はおかしくなった)」が大ヒットし、一躍有名になった。イワン・シャポヴァロフは「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」のプロモーション・ビデオで、ヴォーカルの二人に同性愛の演技をさせ、これがセンセーションを巻き起こした。12月、シングル「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」を発表。

2001年 [編集]

2001年、同じくキーペルとガロヤンのコンビで「ナス・ニェ・ダゴニャット(Нас не догонят / 私たちはつかまらない)」がヒットし、アルバム「200・ポ・フストレーチノィ(200 ПО ВСТРЕЧНОЙ / (時速200キロで逆走)」(5月発表)が更にヒットした。これ以降、インターネットを介してその存在が世界中で話題となり、主に東欧各国でヒットチャートを駆け上っていった。また、西欧、北米への本格進出のために英語版の製作がはじめられた。

2002年 [編集]

2002年、トレヴァー・ホーンが編曲した「200・ポ・フストレーチノィ」の英語版「200 KM/H IN THE WRONG LANE」がリリースされ、さらに「ヤ・サシュラ・ス・ウマ」の英語版「All the things she said」のプロモーション・ビデオがリメイクされた。また、ТАТУのラテン文字表記は、従来はキリル文字をそのまま翻字した「TATU」だったが、同名のグループが既に存在していたため、「t.A.T.u.」に改名した。

この2002年の後半がТАТУ人気の絶頂であったと言える。しかし、このころ既にメンバーの間では激しい軋轢が生じていた。

イワン・シャポヴァロフが考案した同性愛少女二人組と言うコンセプトは、演じているヴォーカルの二人にとっては強い抵抗があった。また、最初にコンセプトを提供したエレーナ・キーペルにとっても耐え難いものだった。またギャラ支払いの不明瞭さの問題もあった。

しかし、このコンセプトの成功に確信を持ったシャポヴァロフは、ヴォーカルの2人の入れ替えを画策したため、結局エレーナ・キーペルとセルゲイ・ガロヤンは脱退し、レーナ・カーチナとユーリャ・ヴォルコヴァは踏みとどまった。

ТАТУの経済的成功は2003年まで続くが、エレーナ・キーペルとセルゲイ・ガロヤンの脱退の影響は大きく、彼らの脱退後にリリースした曲はいずれも期待したほどヒットしたと言えなかった。

2003年 [編集]

2003年のユーロビジョン・ソング・コンテストでТАТУは政治的メッセージ性の強い「ニ・ヴェーリ、ニ・ボイシャ(Не верь, не бойся / 信じるな、恐れるな)」をひっさげてロシア代表として参加した。しかしシャポヴァロフはヴォーカルの二人に反抗的な我がまま娘の演技を指導していたため、現地会場のファンの支持を得られず、3位に終わる。実際は、これ以前からユーリャ・ヴォルコヴァは喉の障害で十分な声が出なくなっており、2002年の 12月に加入したカーチャ・ネチャエヴァがユーリャのパートを歌っていた(本番ではユーリャが歌った)。

2003年になってようやくТАТУ人気が日本に上陸したが、この頃にはシャポヴァロフの路線は完全に破綻していた。ヴォーカルの二人はそれぞれの交際相手を隠さなくなっていたし、彼女らの家族もシャポヴァロフのコンセプトは事実ではないことを明らかにしていた。キーペルやガロヤンの脱退後も踏みとどまっていたヴァレリー・ポリエンコもこの頃シャポヴァロフと絶縁し、ТАТУの成功を支えた主要な作詞・作曲者は全ていなくなっていた。それでもファンがついていたのはガロヤンやヴォイチンスキーの曲に魅力があったからなのだが、シャポヴァロフはスキャンダラスな路線をさらに過激化させていった。

なお、日本での初アルバム『t.A.T.u.』は国内盤と輸入盤の合計で200万枚が売れた。

シャポヴァロフは2003年4月にイギリスでの公演を無茶苦茶な理由をつけて直前にキャンセルしたのをはじめ、各地で不条理なドタキャンを指示。日本においても2003年6月27日、テレビ朝日のミュージックステーション出演を番組放送中にキャンセルし、騒動となった(本人達曰く自分達のステージにしたかった。日本のミュージシャンに邪魔されたと言っている)。以後、当事件の報道などにより、日本での人気は急速に低下した。世界各地でのドタキャンをはじめとしたスキャンダラスな行動でファン離れが始まっていたТАТУにとって、当時の日本では人気の絶頂にいたこともあり、アーティストとして再起するチャンスであったが、結局日本でのドタキャン騒動が世界中に報道され話題となり、ТАТuの人気下落は加速する一方だった。

2003年12月にТАТУは再来日し、東京ドームでのコンサートを2日間実施したが、両日とも5万人の会場の半数ほどが空席(公式発表によると、初日の動員数は25,029人だった)。公演前、S席7500円・A席6500円のチケットがネットオークション等に数百円ほどで大量に出回っていた。

東京ドームコンサートの日、ユーリャ・ヴォルコヴァは体調を崩して出演できる状態ではなかったのだが、その歌唱力と表現力は集まったファンを納得させるものがあった。しかし、渋谷陽一・四方宏明などの絶賛以上に、従前の事件および事後報道が影響し、日本におけるТАТУブームは完全に失速したものとなった。また、このコンサートでもシャポヴァロフはヴォーカル二人に直前のキャンセルを指示していたために、ヴォーカルのふたりとシャポヴァロフの信頼関係は完全に失われた。

東京でのコンサート後、レーナ・カーチナはТАТУからの脱退を示唆したが、辛うじて踏みとどまった。シャポヴァロフはその後も、レーナ・カーチナ及びユーリャ・ヴォルコヴァのロシア大統領選出馬表明等、無軌道なスキャンダル路線を指示し続けるが、その一方でセカンドアルバムの製作も発表し、その製作模様はドキュメンタリーとしてテレビ放送されることになった。

また、2003年12月にはt.A.T.uの劇場アニメ化が発表された。「t.A.T.u. PARAGATE」というタイトルだったが、この企画は中止となったらしい。

2004年 [編集]

2003年12月にロシアのSTSテレビでドキュメンタリー「アナトミヤТАТУ」が放映されたのに続き、2004年1月~3月テレビシリーズ「タトゥー・フ・パドネベースノィ(t.A.T.u. в Поднебесной / 天空のТАТУ)」が放映されるが、その内容は、ТАТУ内部の軋轢とシャポヴァロフの無軌道ぶりだった。セカンドアルバムの製作は遅々として進まず、シャポヴァロフからはセカンドアルバムをより良いものにしようという気も、期日(放送最終日の3月14日)までに仕上げようという気も、まるで感じられなかった。レーナ・カーチナとユーリャ・ヴォルコヴァにとってシャポヴァロフは、自分たちを世界的スターにしてくれた人物であり、何年も苦楽を共にしてきた親友でもあったが、この期に及んでもまともに活動をしようとしないシャポヴァロフを最終的に見限り、ついにシャポヴァロフに契約破棄を突きつける(2月)。シャポヴァロフはこの危機的状況を収拾しようともせず、番組もそのまま終了した。

その後の4月スポンサーたちはこの混乱の責任はシャポヴァロフにあるとして彼を解任した。新プロデューサーには、前の副プロデューサーだったエレーナ・キーペルに就任を依頼し、キーペル側も快諾したが、レーナ・カーチナ、ユーリャ・ヴォルコヴァらはキーペルの復活を望まず、結局メイン・スポンサーであったボリス・レンスキーが自ら暫定プロデューサーに就任することになる。シャポヴァロフの解任後はドタキャン騒動は起きていない。

レンスキーは、自身の作った歌の権利についてТАТУ側と争っていたエレーナ・キーペルと和解すると同時に、ヴォーカルのレーナ・カーチナとユーリャ・ヴォルコヴァを呼び戻し、更にセルゲイ・ガロヤン、ヴァレリー・ポリエンコと再契約することに成功した。ところがユーリャ・ヴォルコヴァが妊娠出産のため仕事が出来なくなり、結局2004年の秋までТАТУは実働しなかった。なお、2004年6月に「t.A.T.u.がt.E.m.A.に改名する」というニュースが流れたが、これはTEMAというグループ(2004年5月結成。ТАТУとは無関係)の宣伝のために流したガセである。

2004年の冬になると、出産を終えたユーリャが復帰し、トレヴァー・ホーン音楽活動25周年コンサートやベスラン学校占拠事件追悼コンサートなどで活動を再開している。また、レーナ・カーチナの父で作曲家兼プロデューサーのセルゲイ・カーチンによればレーナのソロ活動も同時に行われることになるという。

2005年 [編集]

2005年1月20日。作曲担当のセルゲイ・ガロヤンと広報マネージャーのアレクサンドラ・ティチャンコが結婚した。

ユーリャによれば、直前まで二人の交際を誰も知らなかったという。

公私共にТАТУに落ち着くことになったガロヤンは、セカンドアルバム に多くの曲を提供することになっている。

長い騒動の上に、ようやくТАТУは本来の音楽を取り戻しつつあるかのように思われる。

2006年 [編集]

2005年セカンドアルバムの英語版とロシア語版がそれぞれヒットし、MTVruの年間最高アルバム賞を受賞した。曲風はファーストアルバムより更に重厚になり、社会性が増した。 シングルカットされた「All About Us」も、アルバムタイトルとなった「廃人たち」も、現代の閉塞感への抵抗を秘めたものであることが明らかにされている。 最初期からТАТУはしばしば陰鬱な政治性を歌に込めているが、セカンドアルバムはそれが前面に出てきた。 インタビューでもセカンドアルバムのテーマが現代社会の暴力性の告発にあることを認めている。

8月18日。再来日したТАТУは、東京・横浜・名古屋でミニライブをこなし、熱心なファンとの交流が図られた。またはじめて北海道に上陸し札幌ラジオ局に出演するなど地道な活動をおこなった。名古屋のライブハウスHOLIDAYでライブの準備中、客の不入りを理由にライブハウスと管理会社が中止を決定し、日本のマスコミが「またドタキャン」と面白おかしく報道したが、実際はファンは次のライブ会場J.MAXに移動の便宜がはかられたので混乱はなかった。 今回では、「All About Us」収録時から合流していたバンドメンも一緒に来日し、ステージメンバーは6人となり、その顔ぶれはより国際的になった。函館からユジノサハリンスクに移動したТАТУだったが、ここで契約解除となるはずだったバンドメンの契約更新が決まり、来年製作予定のサードアルバムまでТАТУは6人組で活動することになった。 帰国後ユニバーサルとの契約を解消したことから、独自レーベルを立ち上げるのか、セルゲイ・カーチンがプロデュースするのか、様々な噂が飛び交っている。フィリップ・キルコーロフとアーラ・プガチョワが一時ТАТУの権利に関心があったことから、こちらの関係もささやかれている。

9月27日には初のベストアルバム「THE BEST」が発売された。おなじみ「All the things she said」「Not Gonna Get Us」「All About Us」など全20曲を収録。一時期は日本版のみボーナストラックが収録されるという事になっていたが、結局インターナショナル盤と同じトラックリストとなった。残念ながら日本ではあまり注目されず、オリコン初登場は186位に終わった。日本では、これが2006年最後のリリースとなった。

2007年 [編集]

2007年